おはようございます。
今日は大学入試共通テストの1日目ですね。
ということで勉強について書きます。
以前の記事でも書いたんですけど、
僕は物心ついた時から高校まで勉強が得意でした。
いきなりマウント取りにくんなや
と思った方がいたら申し訳ないですが、今から書くことはむしろ逆です。
勉強ができるとか、学歴が高いとか、そういうことが余りにも過大評価されすぎじゃないか?と。
正直僕は昔から、「努力家」「頭良い」とたくさん言われてきました。
その度に、
「違うんだけどなー」
と心から感じていたんですよね。
いや、まあそんな感じで褒めてくれた人達も、
別に心からそう思っていたわけでなく、
これといった特徴のない大人しい男に対して「○○君って優しいよねー」と言うのと同じノリでテキトーに言ってただけでしょうけども。
分かってますけども。
ただ、中には本当に勉強が得意な、いわゆる高学歴に対して、
「努力家」「頭良い」というイメージを過剰に持っている方もいるでしょうから、
それは過大評価しすぎですよということをお伝えしていきます。
まず、僕は自分が努力家とは特に思いません。
これを見てください。
僕の中学3年生のときの通知表の成績です。
国語 5
数学 5
社会 5
理科 5
英語 5
音楽 5
技術家庭 3
美術 3
体育 4
主要教科は全て5で、副教科は音楽以外普通ですね。
結果的に、地域で学力的には最も高い高校に、
「家から一番通いやすいから」
と、
スラムダンク流川的な感じで合格しました。
その結果から、
多くの方は、この子は真面目なんだな、努力したんだな、と言ってくれたわけです。
確かに、テスト週間だけ真面目に勉強しましたし、入試対策もそれなりにはやりました。
国語、数学、社会、理科、英語に関しては、確かに努力したと言えるのかもしれません。
しかし
です。
主要教科と副教科の扱いが逆だったらどうなっていたか
ということを考えてください。
つまり、主要教科は音楽、体育、技術家庭、美術の4教科で、
国語、数学、理科、社会、英語が副教科、という世の中ですね。
もちろん高校入試は、全て実技。
・指定された楽器の演奏
・体力テスト
・技術家庭の作品づくり
・美術の作品づくり
これで入試の合否が決まる。
普段の宿題も、定期テストも、これらに関するものばかり。
もし、中学校がこういったシステムであれば、
僕は間違いなく劣等生でした。
実際、中学時代の僕は上記の4教科について、
音楽のみ、幼少期から小6くらいまでバイオリンをやってたお陰で人並み以上にできましたが、
美術、技術家庭に関しては壊滅的と言ってもいい状態。
居残りしまくってましたからね。
作品が授業時間内に作り終わらないから。
みんなが授業中黙々と作業している間もどうすればいいか分からず、
大体ボーっとしているか近くの席の奴としゃべっていて、授業態度も悪かったです。
ですから、ペーパー試験では毎回満点近く取っているのに、
美術と技術家庭は3でした。
体育はそこまで酷くないものの、決して優秀ではなかった。
もし、これらの科目が主要科目であり、
その成績が「学力」として扱われ、
それによって通う高校や大学の偏差値が決まっていた場合、
それでも僕が努力していたかというと、
絶対にしていません。断言します。
事実、僕が向いていない分野で全く努力できない人間であることは以前の記事で書いた通り。
結果的に、
「SYTEって怠け者だし、頭悪いよね」
と多くの人に言われて育ち、
それが予言の自己成就となり、
頭の悪い怠惰な人間として一生を送っていた可能性が高いです。
つまり、僕が「努力家」「頭良い」と言われてきたのは、
世の中がたまたま国語、数学、社会、理科、英語の能力を「学力」として定義し、
その能力が高い者を「頭が良い」とする価値観が定着しているから。
そして、僕がたまたま上記の能力の素質に恵まれていて、
これらの分野での「努力」が苦にならなかったから。
そう考えています。
高学歴の人は、ほぼそうだと思いますよ。
勿論、勉強の素質がありながら努力を怠って成果を上げられなかった人も大量に存在します。
したがって、高学歴の人は一定の評価を受けてもいいと思いますが、
ちょっと褒められすぎじゃないかな、と。
殆どの人が思っているよりも、運の要素が大きいよ、と。
そういうことをですね。
僭越ながら僕のような、
勉強で一定の成果を上げた側の人間が言っていかないといけないと個人的には思います。
これはスポーツやビジネスでも一緒。
ですから、
たまたま自分の資質と社会の物差しが一致していた人が、
たまたまそうならなかった人に対して、
”才能”を否定して”努力”を過剰に説くというのは、
大変傲慢な行為ではないでしょうか。
今日は大学入試共通テストの1日目ですね。
ということで勉強について書きます。
以前の記事でも書いたんですけど、
僕は物心ついた時から高校まで勉強が得意でした。
いきなりマウント取りにくんなや
と思った方がいたら申し訳ないですが、今から書くことはむしろ逆です。
勉強ができるとか、学歴が高いとか、そういうことが余りにも過大評価されすぎじゃないか?と。
正直僕は昔から、「努力家」「頭良い」とたくさん言われてきました。
その度に、
「違うんだけどなー」
と心から感じていたんですよね。
いや、まあそんな感じで褒めてくれた人達も、
別に心からそう思っていたわけでなく、
これといった特徴のない大人しい男に対して「○○君って優しいよねー」と言うのと同じノリでテキトーに言ってただけでしょうけども。
分かってますけども。
ただ、中には本当に勉強が得意な、いわゆる高学歴に対して、
「努力家」「頭良い」というイメージを過剰に持っている方もいるでしょうから、
それは過大評価しすぎですよということをお伝えしていきます。
まず、僕は自分が努力家とは特に思いません。
これを見てください。
僕の中学3年生のときの通知表の成績です。
国語 5
数学 5
社会 5
理科 5
英語 5
音楽 5
技術家庭 3
美術 3
体育 4
主要教科は全て5で、副教科は音楽以外普通ですね。
結果的に、地域で学力的には最も高い高校に、
「家から一番通いやすいから」
と、
スラムダンク流川的な感じで合格しました。
その結果から、
多くの方は、この子は真面目なんだな、努力したんだな、と言ってくれたわけです。
確かに、テスト週間だけ真面目に勉強しましたし、入試対策もそれなりにはやりました。
国語、数学、社会、理科、英語に関しては、確かに努力したと言えるのかもしれません。
しかし
です。
主要教科と副教科の扱いが逆だったらどうなっていたか
ということを考えてください。
つまり、主要教科は音楽、体育、技術家庭、美術の4教科で、
国語、数学、理科、社会、英語が副教科、という世の中ですね。
もちろん高校入試は、全て実技。
・指定された楽器の演奏
・体力テスト
・技術家庭の作品づくり
・美術の作品づくり
これで入試の合否が決まる。
普段の宿題も、定期テストも、これらに関するものばかり。
もし、中学校がこういったシステムであれば、
僕は間違いなく劣等生でした。
実際、中学時代の僕は上記の4教科について、
音楽のみ、幼少期から小6くらいまでバイオリンをやってたお陰で人並み以上にできましたが、
美術、技術家庭に関しては壊滅的と言ってもいい状態。
居残りしまくってましたからね。
作品が授業時間内に作り終わらないから。
みんなが授業中黙々と作業している間もどうすればいいか分からず、
大体ボーっとしているか近くの席の奴としゃべっていて、授業態度も悪かったです。
ですから、ペーパー試験では毎回満点近く取っているのに、
美術と技術家庭は3でした。
体育はそこまで酷くないものの、決して優秀ではなかった。
もし、これらの科目が主要科目であり、
その成績が「学力」として扱われ、
それによって通う高校や大学の偏差値が決まっていた場合、
それでも僕が努力していたかというと、
絶対にしていません。断言します。
事実、僕が向いていない分野で全く努力できない人間であることは以前の記事で書いた通り。
結果的に、
「SYTEって怠け者だし、頭悪いよね」
と多くの人に言われて育ち、
それが予言の自己成就となり、
頭の悪い怠惰な人間として一生を送っていた可能性が高いです。
つまり、僕が「努力家」「頭良い」と言われてきたのは、
世の中がたまたま国語、数学、社会、理科、英語の能力を「学力」として定義し、
その能力が高い者を「頭が良い」とする価値観が定着しているから。
そして、僕がたまたま上記の能力の素質に恵まれていて、
これらの分野での「努力」が苦にならなかったから。
そう考えています。
高学歴の人は、ほぼそうだと思いますよ。
勿論、勉強の素質がありながら努力を怠って成果を上げられなかった人も大量に存在します。
したがって、高学歴の人は一定の評価を受けてもいいと思いますが、
ちょっと褒められすぎじゃないかな、と。
殆どの人が思っているよりも、運の要素が大きいよ、と。
そういうことをですね。
僭越ながら僕のような、
勉強で一定の成果を上げた側の人間が言っていかないといけないと個人的には思います。
これはスポーツやビジネスでも一緒。
ですから、
たまたま自分の資質と社会の物差しが一致していた人が、
たまたまそうならなかった人に対して、
”才能”を否定して”努力”を過剰に説くというのは、
大変傲慢な行為ではないでしょうか。
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