この社会に生きていると、人生で数回は

「スポーツや芸術と違って、勉強は才能ではなく努力だ!」

なんて主張を聞いたことがあると思います。

僕は、子どもの頃から

「いや、違うぞ。」

と思っていました。

高校時代の某教師が、

「K(僕の高校で圧倒的に勉強ができた奴)が成績良いのは、

誰よりもたくさん問題を解いてるからだ。

何も特別な才能があるわけじゃない。」


みたいな説教をしているのをついて聞きながら、

「コイツ、本気でそう思ってんなら頭わりーな」

と思っていた記憶があります。笑

その考えは、最近、放課後児童クラブの指導員を始めて確信に変わりました。

放課後電磁波クラブではありません。



要は、学校が終わった後の小学1年生~6年生たちの相手をするわけです。

サッカーやったり、ボードゲームやったり、鬼ごっこしたり、ブロック遊びしたり、そんな感じ。

僕の担当してるクラブは、

「昔の俺なんか可愛いもんだったんだな・・・」

と思うほどの、子どもたちの罵詈雑言放送禁止用語が飛び交う愉快なクラブです。

僕は、精神年齢を自在にコントロールする技術があるので、

割と子どもには人気があります。笑

まだ始めて2週間ほどですが、

僕が休みの日に、

「SYTE先生いないのー?と色んな子に聞かれて大変でしたよ!」

と他の先生に言われました。

お世辞も入ってると思いますけどね(笑)

少々話が逸れましたが、本題に入ります。

ここでの仕事は、児童心理学、発達心理学を現場で学べる貴重な機会でもありますから、

子どもの相手をしつつ色々分析を行っております。

思うことはたくさんありますが、その中の一つは、

「この時点で、今後どう頑張っても埋めようのない学力の差がある。」

ということです。

特に、低学年の対照的な2人がいましてね。

A君B君としましょうか。

A君は、

話をしているだけで、

「あ、もうコイツは大人扱いした方がいい。子ども扱いしたら怒りそうだ。」

と感じるレベルです。

理性的な会話が既にできますから、同世代のツレみたいに接しています。

知識量もエグい。

特に理科の知識においては、今の時点で僕なんかでは太刀打ちできませんし、

総合的にも学力は学年でトップ層なのは聞かなくても分かります。

小学校低学年の頃の自分と比較したら、

国語は引き分け、理科と図画工作は彼の勝ち、算数と社会は僕の勝ちかな。笑

(僕の小学校の頃の様子についてはこちらで。↓鼻についたらすんません。笑)



おそらく、彼にとっては学校の授業なんか知ってることばかりで退屈でしょうし、

今後塾なんか行かなくても、ずーっと学力はトップ層でしょう。

難関大学に行けるかどうかは、実は結構色々な要素があるので確証は持てませんが、

高校までに関して言えば、地域一の進学校には楽勝で受かるはずです。

そしてB君の方は、

悪口のボキャブラリーだけはやたら充実していますが(笑)、

正直、現時点ではまともな会話が成立しないです。

「なんで今の俺の言葉に対して、こんな返答が返ってくるんだ?」

「コイツ、話聞いてんのか?」


と、思うことばかりです。

おそらく教科書等を読んだり、授業中ずーっと座っているだけでも一苦労でしょう。

もしB君に対して大量の資本を投入して、

史上最強のカリスマ講師軍団を専属家庭教師にし、

最高品質の参考書を買い与え、

親・教師が最高の愛情を注いだとして、


A君に対して学力で上回ることは天地がひっくり返ってもありえません。


断言します。

逆に、A君に対して色んな大人が、

「お前、上には上がいるから勉強したって無駄だ。

自分で思ってるほどお前は賢くないぞ。」


みたいに否定したとし、塾に行かせず、教材を与えなかったとしても、

「言われなくてもそんなん分かっとるわアホか。

いつ俺が自分を賢いなんて言ったんだ?」


と考え、勝手に勉強して学力をキープするでしょう。

世間で言われているような大人の言葉の力だの、教育の力だの、

もちろん重要だとは思いますけど過大評価されすぎですよ。

勉強に限らず、デキる奴は勝手にやるし、デキない奴は何してもやりません。

では、このある種絶望的なまでの2人の学力差は、

A君が努力家で、B君が努力していないから生まれたものなのか?


そんなはずがありませんよね。


遺伝的な資質に加え、生活の中で自然と生まれただけとしか言いようがない。

何度かこのブログで触れているように、

一般知能であったり、論理的推論能力などにおける遺伝の影響は、

相当大きいです。

詳しくは行動遺伝学についての書籍を読んでいただくのが一番良いと思いますが。



ではなぜ、世の中では

「勉強は努力だ!」

と未だによく言われるのか。

簡単な話です。

それは、


親に教育費を使わせたいから。


スポーツや芸術と違い、

全ての日本人は原則教育を受けさせられます。

そして、スポーツや芸術は飛び抜けた実績を得ない限り食っていけない一方で、

学力に関しては相対的に優れているだけで、

生涯賃金等の一部要素に関してのみではありますが、

だいぶ有利にはたらきます。

できれば子どもには経済的に困らないように生きてほしいと願うのは多くの親に共通するところ。

ですから塾や教材、教育セミナー、教育本にガンガン資本を投入するわけですが、

ここで、

「勉強も、スポーツや芸術と同じで、才能が土台にない限り努力しても大成しない」

ということでは、教育産業の人たちが困るわけですよ。

「うーん、どう考えてもウチの子は勉強の適性がない。

塾に通わせても意味がないから、他のことをやらせよう。」


と考える人が増えてしまい、儲けが減りますから。

そのため、教育という分野に関しては、

科学的な知見を無視した、


有害と言ってもいいカスみたいな綺麗事


が氾濫しています。

僕は本当に良くないと思いますね。

適性のない分野で期待されたり努力を強いられる子供が可哀想だし、

親や教師の言葉のかけ方だ、育て方だ、ただでさえ大変な親や教師も可哀想です。

教育産業の上の方の奴らしか得しませんよ、こういう考え方は。

そうやっていろいろ考えてたら、腹が立ってきたので、



「しゃーない。

俺が既存の価値観を壊すような新しい塾でも作るか」

と最近思い始めました。